大竹五洋は美人画家伊東深水の内弟子で書生を長年務めておりました。
伊東深水が自ら独立させた唯一の弟子であり、兄弟子達が死去する中で
ただひとりの深水直系の絵描きとなりました。日本画の長い伝統と技能を
受け継ぎ、「美しき流れ」をモットーとしております。
修行時代、師・伊東深水とともに。
当時、大竹五洋は師の制作のほとんどに助手として携わっていた。
美人画は花鳥画や歴史画とならぶ日本画を象徴するジャンルの一つです。
美しい女性を描くことは古くは高松塚古墳の壁画に描かれた女官像や奈良正倉院の鳥毛立女屏風などがあり、
江戸時代の浮世絵から美人画というものが認知され始めました。
やがて近代に入り、岡倉天心達により「日本画」という日本における独自の絵画の
カテゴリーが確立すると、「美人画」も盛んに描かれるようになりました。
特に東京の鏑木清方と京都の上村松園は二大柱として美人画の全盛期を築きあげました。
上村家は松園の後、美人画を捨てて花鳥画家になるのですが、清方の弟子たちは競って
美人画を描き、その中でも伊東深水が、その頂点に立ちました。
伊東深水も多くの弟子を持っていました。しかし自分のライバルが出現する事を良しと
しなかったのか、その殆どの弟子には美人画を描くことを許しませんでした。
そのような中で書生は助手としていつも深水の脇にいなくてはなりませんでした。
つまり師匠が描く姿を見て学ぶことが唯一人ゆるされた存在でした。
また、深水が自ら描く作品の絵具も書生によって色が作られました。具体的に言えば千回叩くと言われ手間とコツのいる胡粉や、色の調合
等です。
やがて伊東深水も側近から「後継者をつくった方が良い」とアドバイスを受け、書生で最後の内弟子であった大竹五洋を美人画家として
独立させたのでした。
それから八年後、鏑木清方、伊東深水は相次いで死去、着物も日常生活から消えて美人画というジャンルも日本画の第一線から姿を消して
いきました。
大竹五洋はその中で、鏑木清方、伊東深水の意思と技術を継承し、正統な美人画を描く日本画家として現在に至っております。